「PMエンタ−テイメント作品研究」

hellbeyond2005-01-12

昨日/今日は編集室詰め。
時間があったので以前から書きたかった小論文をtext打ちした。
ここにアップします。
では、どうぞ。


はじめに


’80年代中期から’99年に掛けて徹底した見せ場主義のB級アクション作品を量産してきた映画製作会社、PM entertainment。
同社の作品はその殆どが設立者のリチャード・ペピン(P)、ジョセフ・メルヒ(M)どちらかの演出に依るものだ。アクション、編集、CG中心の特殊効果の使い方の上手さとどれをとってもペピンのほうが演出の技量は上。メルヒもそこいらのB級監督よりは手慣れた職人ぽさを持ってはいるが、如何せんじっくり腰を据えて1シーン1シーン演出するので、アクションに大事な映画テンポ的なセンスがない。彼等もそれはよく解っていたようで『サイレンサー/地球侵略』『Y2K』『エグゼクティブ・ターゲット』などの同社の中では大作に属する作品の殆どはペピン演出によるものである。
さて、PMエンターテイメントについて文章を書くという事が何者かに評価される事はまず無いであろう。
そりゃそうだ。大体彼等の作品自体が一般的に評価されたことは私の知る限り一度たりともないし、彼等が隆盛を誇った時期の代表作はそのすべてがメジャー大作の後追い企画である。
彼等の元からデビューしてその後メジャーにのし上がった人材も皆無だ。
とはいえ、今現在ビデオ屋の新作未公開コーナーに陳列されている作品に完全に欠如していて、同社の作品には確かに存在していた「B級映画に必要な要素」がいくつかある。
それらを改めて指摘する事が、現在の未公開作品の圧倒的つまらなさの原因究明には有用だと判断した。
よって、ここに映画批評史上初めてであろう、「PMエンタ−テイメント作品研究」を発表する。


カーアクション


PM作品についてまず最初に語るとすれば、この要素以外はないであろう。
彼等の見せるカーアクションにはフランケンハイマー作品の様なスマートさはないし、『スピード』のような工夫もない。あるのは、不自然な位置に置いてある巨大タンクローリーであり、果てしなくクラッシュし続ける主人公達とは無関係な(要は通りがかりの)車であり、無節操な爆発である。実際彼等はカーアクションを強調して見せる事しか考えていないふしがある。それがより派手なら逃亡中の主人公の車を赤いバギーにもするし、荷台にグレネードランチャーも配置する(『バーチャソルジャー』)。よほどエキストラの扱いが上手いのか、そういった爆発に巻き込まれ吹っ飛ぶ人々も時に「あ、カッコイイ」とまで思わせる動きを見せる。
そうして追求したカッコ良さの到達点は『サイレンサー』の中盤、高速を逆行しながら繰り広げられる車、ヘリ、タンクローリーによる三つ巴のカーチェイスであろう。この追跡劇のラストには、ヘリがタンクに激突、落下、爆発した火炎の中からクラッシュの勢いで回転し乍ら飛び出してくる乗用車のカットがある。この作品以降彼等もこれ以上は望めない事を悟ったのか、クラッシュする車の台数カウントに血道をあげていく。
そして特筆すべきは、これらのカーアクションに(恐らく)全く特殊効果が使われていないということである。CGによる弾着や爆発の大規模化、合成は言うに及ばず、カーアクションでは一般的に用いられるミニチュア撮影さえ使わない。
彼等のアクションにはテンポの悪いところも多々あるし、主演俳優が運転席に座った途端「あ、人が変わった」と解るくらい程度の低いボディダブルに入れ替わる作品もある(『エグゼクティブ・ターゲット』のマイケル・マドセン)。しかしそれでも、今夜は良く知らんがこのB級映画でも見るかとビデオを手に取ったオヤジ観客も肌で感じる本物志向のカースタントがあるからこそ、PM作品はバブル以降の日本ビデオシーンを生き延びてきたのである。


特殊効果


さて、カーアクション撮影に際して徹底して特殊効果を使わないと述べたが、PMが特殊効果に対して否定的な視点を持っていたのかといえば、そうではない。むしろ映画の見せ場構築の為には喜んで最新技術を導入している。
それは製作タイトルにSF作品が多いことからも窺える。
荒唐無稽な(カー)アクションを無理なく物語上にねじ込む目的もあったろうが、当時物珍しい技術だったモーフィングやCGアニメーションなどの特殊効果技術を盛り込む為にも、SF作品は適当だったのである。
ちなみにこれに関してはほぼ全てのB級作品製作会社が同様の判断をしたようで、’90年代ビデオシーンは安いCGを駆使したSF/ホラー映画で横溢する事になる。
そこにきてPMの動向であるが、まず懸命だったのはホラーなどCGとの相性が悪い作品、宇宙モノなど見せ場の中心がCGにならざるを得ないような作品に手を出さなかった事である。当時のB級作品のCGといえば、実写との合成はまだモ−フィング程度が精一杯で、フルCGキャラなど夢のまた夢といった感じであった。1カットに掛ける予算を減らすなどして無理に大っぴらにCGを使った作品がゲームムービー以下の悲惨な様相を呈していたころ、PMは『ダークブリード』というB級エイリアンSFの傑作をものにする。
 この作品でのCG使用シーンは大きく分けて3つ、オープニングのスペースシャトル墜落シーン(1カット)、劇中時々登場する、エイリアンに寄生された人物の顔が歪むシーン(数カット)、クライマックスで遂に人間→エイリアンへの変身シーン(数カット)である。御覧の通り非常に上手く「CGで見せるべき部分」を選択し、それ以外はお得意のカーアクションや変身後のエイリアンの造型で淀みなく見せ場を繋いでいる。そしてこれが重要なのだが、厳選した事でいざという時のCGカットのクオリティが非常に高いものになっているのだ。
当時の(B級)同種作品で、現在まで一般観客の鑑賞に耐える画面的クオリティを保っているものは非常に数少ないが、PMエンターテイメントがその中に複数本自社作品をねじ込んできているのは注目に値することなのである。


ストーリー


映画で最も重要な要素と言ってもいい「ストーリー」が三番目に来てしまう辺りにPMのPMらしさが現れている気がしてならない。
冒頭に彼等の作品は時々の大作の後追いである事が多いと書いたが、それはあくまで企画、もしくは最も基本的な求心力となる物語の「肝」のみにおいての話である。例を例えて言うなら『サイレンサー』は明らかに『ID4』が巻き起こしたエイリアンSFブームに乗った企画であるが、彼等の作品には間違っても巨大宇宙船や闘う大統領など出てこない。出てくる宇宙船は三角形をした小型バトルシップ、しかも登場はワンシーンのみである。
 では見せ場はというと前述した通りのカーチェイス、それと主人公の刑事と人間型エイリアンとの触れ合いになってくる。これはエイリアンをサイボーグに置き換えれば『T2』後追い企画『ターミナル・フォース』(ペピン演出)にも当てはまる構図である。
要はジャケットが公開作のポスターに似せられればいいのだ。彼等にとって後追いをするということにはその程度の意味しかない。
ストーリーはあくまで自分達が作ってきたルーティンの中で展開し、見せ場は自分達の得意なものの中から選んで取り込んでいく。
ここが現在のほぼ全ての未公開作品とPM作品との決定的な違いである。
特に近年のB級作品には、大作のプロットをそのままB級の予算で再現しようとしているものが多い。それには勿論それ相応の予算が掛かるし、アップに耐える主演俳優、なによりしっかりと物語が紡げる技量のある監督が必要なのである。
それを無い袖で無理にやるとどうなるか見たければ、今から一番近いツタヤにでも行って、新作コーナーの下の方にある、(大概ジャケットの表が人の顔でなく、爆発やヘリや怪獣の)ビデオを借りてみればいい。


最後に


低予算作品をメジャー大作と同じ方法論で作ってはいけない。
PMエンターテイメントの社長室にこんな標語が掲げてあったかは解らないが、少なくとも彼等は本能的にそれを知っていた。そして自分達が誇るべき「カーチェイス」という得意分野を持ち、何よりそれを実際に映像に起こす喜びを知っていたのである。
 この「自分たちはB級映画を作っている」という自覚(非・諦め)の有無が、現在まで延々作られ続けるミレニアム以降のB級作品とPMを中心とした'90年代の良質なB級との出来の差異を生んでいるのだ。
最後に補足的になるが、PMにはお抱えと言ってもいい常連俳優たちが居た。ドン・”ザ・ドラゴン”・ウィルソンやジャック・スカリアといった面々である。どの俳優も三枚目で間違ってもメジャー作品に出演不能なつぶしのきかない演技であり(ただし基本的な感情表現はひととおり可能)、その代わりアクションシーンでの動きの良さはちょっとしたもので、これら看板俳優の出演もB級ファンの愉しみであった。大体においてこういった映画のファンは判官贔屓であるから、こういう取っ付き易い要素(あるいは会社として括り易い、目に見える記号)があったほうが感情移入し易いのだ。
彼等が影を潜め、トーマス・イアン・グリフィスやマイケル・マドセン、ルイス・ゴセットJr.といった「大作傍役系」の俳優を主演に据えだしたころからPMの製作本数/クオリティの衰退が始まったのは興味深いが、それについては文章を改める事にしよう。



以上。
対象作品はマニアックだけど、結構他作品にも当て嵌められる内容になっていると思います…。PMはもう映画作らないんですかね?