OUT OF THE DARK

hellbeyond2005-07-04

ここ二日ほど風邪なのか何なのか、酷いだるさを感じて伏せってしまい、自宅療養を余儀なくされる。地元藤沢に帰っていたのがせめてもの救いで、幸い学校も休みだった弟が作った食事を食べて昨日一日は殆ど布団の中で雨の音を聞いていた。庭には自分が高校生の頃に自然に生えてきたケヤキが二階のベランダに立った自分の目の高さ位にまで成長しており、雨が降るとその枝先や葉っぱの裏にについた雨水が非常によい雨だれの音をさせる。


ここ一週間で未決囚だった友人が立て続けに就職を決めた。一人は岩波書店でもう一人は角川映画である。二人とも自分が元々進みたがっていた道と、目の前に提示された就職口の間で色々思っていたようであったので安心する。
そしてふと自分のことを省みると不安になったりする。
ムリヤリその考えを打ち消して脚本を打ってみたり。
ビデオ(くうそう)の世界に逃避してみたり。


二日前、戸塚駅から市営地下鉄で一駅、踊場なる駅を最寄に持つ「東汲沢小学校」なる学び舎に授業参観に行ってきた。
我が子の姿を見に行ってきたわけではない(ま、ありえなくもない年齢に達しつつもあるが)。かといって甥っ子とかでもない。
近しい人間なら何となく予想がつくかもしれないが、小学校の教諭を生業として自分と弟を育てた母の仕事振りを「参観」しに行って来たのである。
先週地元に帰った折に、次週にあるという授業参観についてぼやく母親の言で、この逆参観を思いついたのだ。
自分は生まれついて興味のないことに対しての集中力が欠如しているので(実際「学業のあゆみ」にもそう書かれた。今考えるとあの先生は中々観察眼があったのだなあと思う)、小学校の頃など自宅での母親の厳しい折檻もとい授業がなければ、まあ間違いなくajianと出会うことはなかっただろう(ajianとは高校来の友人)。
そんな風に自宅で息子としては母親の教え方に触れていたものの、実際教育のプロとして母親はどのように仕事をしているのか、まだ見た事がないことに思い至ったのである。
校門には、部外者向けに近年の事件を踏まえた警告文が貼ってあった。流石に校舎に入る瞬間は緊張。
入ってみると授業参観の日ということで他にも親御さんらはそこここに居り、ちょっと安心する。しかし彼らの首からは「PTA」と書かれたネームプレートが下がっている。翻るに自分はそんな洒落た物は持っていない。よく見れば他に自分ほど若い参観者もおらず、目立っていることを意識しながら教えられた一年二組の教室へ。着いてみればまだ掃除中だ。懐かしいから拭きの光景。その中で母親が腰を折って子供たちと掃除をしていた。きっと子供の話を聞くために、自然とそういう姿勢になるのだろう。
そのせいか、母親がとても小さくなった印象を受けた。
小さい机と椅子が縦横に並んで、授業が始まる。
5時間目は音楽。
「フルーツパーティー」という簡単な曲を最初は歌で、次いでカスタネットとタンバリンで、最後にピアニカで演奏するという授業。
母親の授業は良くも悪くもオーソドックス。そういえば自分もこんな印象の授業を受けた覚えがある、そんな感じだ。小学生の自分が(生意気にも)教師に対して感じた不満も思い出した。
授業が終わると、母親が僕を父兄と子供たちに紹介。
子供たちに握手を迫られる。突進してくる子もいる。
小学校一年生、これでもまだ大人しいほうらしい。
シャツの下に着ていた網目のタンクトップを目ざとく見つけた子供に引き千切られそうになりました。『ザ・チャイルド』って恐怖映画をちょっと思い出した。


総論するに、母親の仕事姿を見る、というのは、自分にとって思った程なにか期待したインスピレーションを与えてくれるものではなかったようだ。
子供の頃感じていた緊張感(それは実は味を変えて今でも何かの折に感じたりしているのだが)や子供同士の連帯感、親への屈託ない依頼心(嫌な言い方かな)、子供たちの会話や授業中の姿からそんなものを拾いとった、というのが収穫か。
てんでばらばらのピアニカの音が充満した午後の教室、そんな雰囲気を今一度味わっただけでも、貴重な体験としておこう。


(今日の画像は本文とは関係ありません)