現実逃避はバンダナ逃避

hellbeyond2007-10-31

 駆け込み乗車で上映終了直前の『プラネット・テラー』を観る。
 大学時代に『ファントム』を観て興奮した直後の脱力感を味わった新宿武蔵野館での鑑賞。立地のためか、平日夜九時からの上映に関わらず客入りは悪くない。15人前後というところか。


 作品自体は過度に「映画」というメディアに固執した歪な代物。
 今この瞬間自分は『スプリット・セカンド』を見ながらこの文章を著わしているのだが、この作品とあちらとの製作者の姿勢の違いが端的に『プラネット・テラー』の物足りなさを表現する助けとなった。
 『PT』は必死に観客を「感情移入させ、我を忘れさせるほど作品に没入させる」ことを追求した数々の作品に対する冒涜である。どんなにたどたどしかろうが、自身が映画であることすら忘れさせようとした(『スプリット・セカンド』のような)彼の時代の作品群のほうが圧倒的に魅力的だし、如何わしいし、尊いのだ。
 映画がごっこ遊びだというのは解っている。但し、他人のごっこ遊びにのめり込めるほど私は単純ではないし、習性的な人間ではない。


 さて、問題点を以上の通り挙げさせてもらった。
 この問題は、一本の作品を貶めるに当たって十分すぎるほど大きい。
 改めてこう言う理由はと言えば、作品自体が楽しめるものだったからである。
 何故わざわざぶち壊しにするような「フィルムの飛び/傷」(特殊効果の粗を隠すために使用している−それもB級っぽさの演出だと言われればそれまでだが)「リール紛失」(これには悪意すら感じた)などを駆使して観客の集中を妨げたのか?
 ずるいのは本作のコンセプト「ドライブイン的な映画」が全ての粗の言い訳になってしまうことだ。その作品がそうかそうでないかは観客が作品自体を評して判断すればいいことである。ロドリゲス監督は、言い逃れようの無い完全なB級を製作することに、何か自分のキャリアに対する危惧でも感じたのだろうか?
 珍妙な戦闘法を駆使するキャラクターどもの造型が楽しめたこと、マイケル・ビーンの存在(ショットガン!)とラブシーンでの音楽の使い方に『ターミネーター』に対する強い憧れが見て取れたことなど捨て置くには惜しい魅力がある作品なだけに、本作を真面目に撮ってくれなかった事が悔やまれる。
 『レジェンド・オブ・メキシコ』以降、同監督作品の進む先には虚無しかないという感触が作品毎に確かになってきている。