『フリークス・ドール』

hellbeyond2008-02-05

 ’90年代にはめっきり減ったホラーオムニバスの一つ、『フリークス・ドール』(’95)を観る。


 カーニヴァルで可愛い女の子を引っ掛けてご機嫌な少年。彼女を連れて閉館間際の見世物小屋に潜り込む。そこで「フリークマスター」と名乗る妖しい紳士に出会った彼らは、四つの不気味な話を聞かされることに・・・。
 マスターが取り出した標本やカーテンの奥から連れて来られた男などがまず示され、彼らに関する逸話が語られるという各話とも、見世物の雰囲気を濃厚に醸す奇妙で過激な都市伝説ばかり。フリークショー(原題)を観た気分を観客に味あわせる、という確固たるコンセプトが確かに伝わるいい作品だった。テントの中に入っても床は無く、芝生がむき出しの安っぽさ、主人公達に話の真偽が確かめようのない標本の状態など。最後に主人公が殺されないのもいい。殺されたらそこで物語は終わり。ほうほうの体で逃げ出した少年の口から、五つ目の伝説が生を得るのだから。
 更に本作が再確認させてくれたB級の良さがある。それはロケーション撮影の美味しさだ。
 森の中にぽっかりと開けた草原、ハロウィンの夕闇迫る頃、仮装した子供達が案山子を火にくべる・・・または、眠ってしまいそうなほど静かな昼の森、散策する少年が出くわした荒れ果てた墓場・・・などといったシーンの、「過度に手が加わっていない」風情。それはニューシネマ以後のアメリカ(B級)映画が手にした本当の長閑さであるだろうし、ホラーに限って言えば、その中で展開する夢幻/怪奇風景にこそ、我々日本人が肌で感じられる普遍的な手触りがある。長閑な風景の中の異物。自分がそれを初めて意識したのは水木しげるの絵からだったが、『死霊のはらわた』にしろ、『悪魔のいけにえ』にしろ、セットでない部分の全体の印象における比重が、本当はとても重いのではないか。このバランスは改めて研究される意味がある。CG台頭の影響として、(諦め半分の)セット撮影が異様に増えてきている近年の傾向を食い止めるためにも。