この手袋に手を通したもう一人

全く、久々に世界の腐りっぷりを、身の回りに転がる無関心を、メディアを通してでなく生でぶつけられた。
自分が作る動機ということについて書いた翌日に、早速手痛い形で思い出させられたというわけだ。何で自分がああ言った作品を作り続けるのかを。
虐待を受ける少女と、それを観ないふりをする身近の人々。
それに接した自分と相方は、勿論なにもしなかったわけではない。と言って、いまこうして文章に起こして吐き出す必要がある程度には、自分ができることを必ずしも全てやらなかった自覚もあるのだ。ああ。
そして、かろうじて口には出さなかったが、この経験を作品に反映させる昇華のしかたが自分にはある...などと残酷の極みのような思考にも逃げかけたのだ。
寒空の下、昼食ももらえず、トイレにもいけないまま駐車場で北風に吹かれていた、母親が怖くて家に帰れない5才の女の子。

自分の行動力のなさと下らない世間体、作品の為に人非人になれない中途半端さを、呪わしく思う。

自分の憂慮が、相方の心配が、杞憂であるように。
せめてこのくるしみを、書き残しておく。