Farewell to the relics.
昨日、久しぶりに階下から「うるさいよ!」の意を伝える打撃音を食らった。
ま、そりゃそうだろう。
深夜二時半にガタガタ音させてりゃむかつくわな。
何って掃除である。
思い立って「いらないもの」を整理。始めると、いかに過去の遺物が部屋の収納スペースを占領していたかが分かった。
既に自分の中で「風景」になっていた袋やファイルケースの中から、今はもう何の効力も持たない「もの」たちが溢れてくる。
賞味期限が切れまくったパン粉、小麦粉、みりんなどには憐れすら覚える(一番古いもので2003年に切れたものがあった)。
今は空疎にしか見えない、実効性のない[もの]たち。
…片付けていて少し気分が悪くなった。
廃棄することについて痛みを感じない自分に、ではない。
こういったものを何時までも部屋の中に居させていた事実に、である。
自分は近眼だ(コンタクトにして長いけれど)。
子供の頃、授業がつまらなくなると、眼鏡を外して手のひらをまずは遠くに置き、段々近づけてくるという遊びをしていた。こうすると、まるでカメラがピントを合わせるが如く、アウトフォーカスが徐々に解けていく感じを味わえる。
自分と対象との距離。
価値を理解できる距離とそうでない距離。
自分の視力が弱まっていくことを諦観を持って受け入れていた子供の頃の自分は、それでも、まだ「ピントの合う距離が、自分にもある」ことを、確かめていたのだろうか?
最近の自分は、精神的「近視」ともいうべきやり方で、部屋の中にある「意味をなくした」ものたちから目を逸らしていたのである。
それと気付かないほど日常的に。
自分で意識して、それが「意味のないもの」(…いや、ここでは敢えて「所有しているべきではないもの」と言おう)ではないか、確かめ続ける意志力を持っていたい。
何故これらが形骸化したものに見えるのか―については、明瞭な答えが出ているのだから。
そして、その答えは哀しいものではないから。
「さようなら」。
今朝起きたとき、部屋は、とても気持ちのいい空気の中にあった。