くそったれクリーチャー:REBORN
やつらは群れでやってくる。
どっかのBジャケの謳い文句だが、しかし本当、茶毒蛾どもはどこからやってくるのか?
ここのところ一週間に一回ペースで地元に戻ってその度に駆除しているにも拘らず、帰ってくるとまたぞろいる。吸血の群れの如く。
今日こそはと気合入れてやっつけたんだが、どうだろ。
ここから二週間と少し帰って来れないからなあ。また復活するんだろうなあ。
所で奴らとの戦いの最中、今日はホラー映画のワンシーンをリアルで体験した。
戦い終わって手を洗いに洗面所に行ったときのこと(※あ、ちなみに勿論手掴みなんてしてませんからね)。
手を洗い顔を洗い、ふっと上体を上げて鏡を見た。
その瞬間。
自分の目に飛び込んできた。
首元に、…いや、Tシャツの首元に、奴が!奴が!
「うぁ!!」
背中には凄まじい勢いでチキンポックが出現。
すぐ脇にあった櫛(…ゴメン。洗ったから)を掴み、慎重に落とす。動き出してTシャツの裏側なんぞに逃げ込まれたら、自分、死ぬ。
水面に軽い波紋を起こして、害虫が落ちる。
奴はうねうねと苦しみながら、排水溝に出来た即席トウィスターに吸い込まれていった。
…今日は朝からどっと疲れた。
仕事で使う劇用写真をプリントする傍ら、近所のゲーム屋で何故か売っていたフルチの『新・デモンズ』のDVDを購入。同作品は後期フルチの中でも『ルチオ・フルチの クロック』に次いで(怪奇シーンにおいて演出のテンションがわずかながら上がるという意味で)見所のある作品。
一般的な作品にも適用されうる基準で評価するならばこれは「駄目な映画」なのだろうが、近年作られ続けているB級駄目映画とはその駄目さの根本が異なる。珍しいシチリア島の伝説に材を取り、本物の遺跡にロケするなど「怪奇映画を面白くする」要素を取り入れようという意思が見え隠れする本作は「許せる駄目映画」なのだ。ってこんな主張に意味があるとは思っていないけれど、この映画を観て喚起される感情「怒り」に対して、近年の駄目映画は「無気力」を感じさせる。
これって結構重要だと思う。「怒る」のは映画が好きだからで、「無気力」になっちゃったら映画が好きなことすらどうでも良くなっちゃう。…いいのかなあ、これで。
アルバトロスをはじめとする駄目映画しかリリースしない会社は本気で潰れてほしい。
…『バイオレンス・ヒート』(原題:蝶の革命)を昨日鑑賞。
'86年の「サマーキャンプ」映画。
『13金』『サマーキャンプ・インフェルノ』シリーズに代表されるスラッシャーものの温床である一方、『インディアン・サマー』のような佳作も生み出すジャンルだ。
本作では、横暴な監視員(チャック・コナーズ!…実はこの名前だけでジャケ買い)たちに反旗を翻した少年少女と若い指導員がキャンプをのっとり、親の目の届かぬ一ヶ月間のキャンプ生活に様々な「改革」を起こしていく…が、改革を始めた頭の回る金持ち息子の独裁と洗脳により、改革に異議を唱える少年たちには恐ろしい制裁が加えられ始める。
子供たちによる改革という誇張された=オブラートに包まれた形で、多くの「改革」が歴史上辿って来た失敗を見せていく…というそのコンセプトは秀逸。ただ問題はキャラの描き込みが全く『13金』的におざなりで、いまいち主人公が絞り込めていないこと。どうやら主人公らしいというキャラが二人おり、シーンによってどちらの視点なのか定まらない演出をするので、どうも煙に巻かれたような歯がゆい印象が残る。よってどんなに楽しそうなシーンやスリリングな設定が用意されていても、観客は「傍観者」として鑑賞する程度の距離までしか感情移入できないのである。
例によってトチ狂ってレイプしようとする青年が出てくるが、彼が怒った女たちによって運び去られ、後にハングドマンになって発見されるという所まで踏み込んでいるのが面白いかもしれない。
あ、そうだ。劇中のキャンプ恒例学芸会で指導員コンビが演奏してチャック・コナーズのひんしゅくを買う曲『ビーフ・ボローニャ』はサイコウに幼稚だがカッコいい!
彼女がほしいのは
甘い言葉でも
バラでもない
ビーフ!ビーフ!ビーフ!
ビーフ・ボローニャ!(股間を押さえて)
ビーフ!ビーフ!ビーフ!
ビーフ・ボローニャ!(股間を押さえて)
サントラほしい。