The PLAGUE

hellbeyond2007-11-09

 『殺人バクテリアM−3』('78/カナダ)を観る。
 自分はまだ傑作と名高い『アンドロメダ・・・』を未見だからして「現在のところまでの」と但し書き付きながら、これは細菌を扱ったスリラー映画としては最高レベルの作品である。
 同様のテーマを扱った『スティーヴン・キングの ザ・スタンド』は群像劇という物語上の制約から主人公を複数置き、そのため視点も錯綜しがちであった。本作では隔離された研究施設で孤独にアンチドーテを研究し続ける学者という一応の主人公は居るものの、彼の視点で物語が進むわけではない。むしろカメラは「広がっていく感染」を捉える上でのベストの場所、時間に赴き、それぞれの出来事を冷徹に、第三者視点で映し出し続ける。そのカメラ位置から演出の意図は極限まで排されており、放送コードを始めとする便宜上のモラルに対する気兼ねすら感じられない(本作は子供や老人、動物が悶死するシーンを含んでいる。そこに物見高さを感じさせない=無駄にカメラが寄らない、のも素晴らしい)。


 と、ここまで思って、先日鑑賞した子供映画『バイオハザードⅢ』を思い出す。
 あの作品には主人公たる権利を持たない主人公がいる。そして観客が見たい場所からカメラを背けさせ続ける物語がある。
 荒野と化し、絶望的な状況に置かれた人類が、死者どもと戦い続けている世界。
 皮膚感覚で危機感を感じられる状況が幾らでもありそうな舞台で、念力を使えるカンフー女の話なんか誰が観たいよ?
 チマチマした砂漠での闘い(=セット組む必要なし)に募ったイライラを解消すべく赴いたラスベガスは何とラスベガスである必然性がない(お話に絡んだのはコンテナと鉄塔だけ。アルバート・ピュン?)。
 バイオシリーズだけに留まらず、近年のハリウッド映画は主人公が主人公たる必然性に欠ける。そして観客が感情移入出来る出来ないに関わらず、主人公を誰かに絞らずにはおかない。
 結果物語は不自然に窮屈になり、興味の持てない人物の与太話に付き合う苦痛な時間がそこここに発生するわけである。
 これは見せなければいけないもの(決して「見せたいもの」ではない所がポイント)、ゾンビ/ロボット/蜘蛛男etc.が先ずあり、それが登場する物語の中に必然的に必要とされるキャラの中から惰性で主人公を決定している、という最近の映画の成り立ち方が大きく関係している。
 だったら主人公(の視点)なんていう足かせを取っ払えばいいのである。『殺人バクテリア』みたいに。・・・まあ無理か。宣伝の力なしに映画がヒットしなくなった今、主人公(=有名俳優)無しの商売なんて成立しないんだろうな。


 他にも『バイオⅢ』をけなすポイントは無数に見つかるが、駄目作品をあげつらっていてもしょうがない。
 『殺人バクテリア』はラストに向けて盛り上がっていくタイプの作品ではないこともあり、掛かった予算の面では彼の駄作とは比べるべくも無い。
 が、そんな外面的なことはどうでもいい。伝わってくる危機感の話をしよう。『バイオハザードⅢ』が幼稚園を学級閉鎖に追い込んだ風邪とすると、『殺人バクテリア』はヨーロッパ全土を隔離に追いやる炭素菌、である。