Deer Dear

hellbeyond2007-11-15

 脚本執筆上での相棒、gryewの誘いで、先日「青木ヶ原樹海」までタンデム行。
 自分は映画『アバンダンド』の、gryewは携帯ホラーゲームの脚本を執筆中であり、霊感を得るためという名目の気晴らしである。
 富士の樹海といえば、自分をして幼年心霊好きとした「ケイブンシャの大百科シリーズ」で度々取り上げられた心霊/自殺ゾーン。二人の間には「行って何する」という話は無かったが、間違いなく死体探し的な物見高さがあったと思う。そうするとこれは『スタンド・バイ・ミー』再現行と言うことも出来る。
 家を出たのが10時過ぎ。晴れているにも拘らず、箱根の山に差し掛かると急激に気温が下がる。少し長めに陰の中を走っていると震えが来るほどである。
 更に知人の車で同所を走っているときには気付かなかったのだが、富士山に近付くとカーブの路面に進行方向に沿って細かい溝がストライプ状に彫ってあり、二輪でこの上を走ると滑るのである。諤々と左右に振られるバイクの首に恐怖を感じた我々の目の前に登場したのは、先日の台風で崩れ去ったガードレールと、その向こうに突き立った針葉樹の梢。慌てて徐行した我々のすぐ脇を、乗用車が60キロオーバーで過ぎ去っていく。
 しばしば著しく勢いを殺がれながらも、樹海を右手に、嶺を左手に見ながら走る71号線に辿り着いたのは・・・おそらく三時を回っていただろう。
 毛羽立った絨毯の表面のような地面に時折垣間見える風穴が目立ち始めた頃、我々は有る程度人の手の入っていそうな植林地帯に到着。

 風穴に落ちたりといった危険も一先ずは無さそうだ。
 軍手を装備、木之子の群落を横目に森の中へと分け入った。
 しかし・・・道中所々、木の根付近が大きく抉られたような痕が。その数は奥に行くほど増してくるようだ。樹海にプーさんは生息しているのか調べて来なかったことを激しく後悔。
 更には催した方による運子が路を阻む。山中での行為は熊を呼ぶって習わなかったのか。苦しみは判るが。
 (追記:後に調べたところ、矢張り富士の裾野にプーさんの生息はあるようである)
 明らかに人の拓いた山道だけあって、いつの時代のものとも知れぬ空き缶や飴の包み紙など散見される。しかし自分にとって一番性質の悪いゴミは白いビニールだ。
 林の中でしかも距離が有ると、薄汚れたそれは山中に朽ち行く布切れ―恐らくそれを捲れば一生脳裏に焼き付いて離れない顔が現れる―にも見えてしまう。


 そうだ。―と、ここで自分は嫌なものを思い出した。大学時代、友人Mとのドライブ中に立ち寄ったブックオフ。あれは何処だったか。私はビデオ、LD棚を軽く流した後、並ぶ原色が気に障る雑誌コーナーを通りかかり、そこで目を惹く背表紙を見つけた。


 「樹海」


 そういうタイトルだったと思う。
 何故目を惹いたかといえば、その背表紙が周囲にそぐわない暗色で構成されていたからだ。
 カバーには、PSD修正が入ったかと思うほどの濃緑色の苔に覆われた風穴の入り口の写真。
 どうやら、青木ヶ原樹海を中心にした写真集のようだ。
 パラパラ捲るも、嫌いなくせにどうしても興味を持ってしまう「アレ」の写真は無いようだ。まあ、一般受けを考えればそうだろう。編集者の決断は商業的に全く正しい、と思ったが最後の数ページ、木の根の間に転がる苔むした頭蓋骨が現れた。 
 「結構・・・やるなあ」
 続く緑の図版に半ば無感動になっていた自分は、そう思い乍ら軽く次の頁を繰った。
 しかし、それは、今になって思えば軽くは無かったのである。軽いどころか、一人の人間の人生と、もう終わって形骸だけになった苦しみと、怠惰と、孤独と・・・そういった物を自分が強制的に「受け取らされる」ような図版が乗った、重苦しいことこの上ない頁だったのだ。
 しかし兎も角も、自分はペラ、と軽くそのページを捲ったのだった。


 そういうことを思い出したことをgryewに告げる。
 自分の心の中の錘が(何なら天秤といってもいい)少しだけ軽くなったことに軽い罪悪感を感じながら、奥へと進んだ。
 途中、鴉避けネット程度の軽い侵入阻止措置を潜り、獣道を分け入り、再び開けた植林地帯へと抜け出た。
 ・・・ふっと気が抜ける。
 木々の間隔は奥まで見通せるほどにまばらで、程よく傾斜した地面を見上げると、薄暗い森の切れ目には朱色になり始めた空が見通せる。
 残りの飲料水を口にし、幾分軽くなった足を進めようとしたのである。
 その時、



 ?!
 「なんだ、これ」
 gryewを見ると、やはり自分の足元を注視して硬直している。
 「まさか」
 一気に重くなった空気。
 誤魔化すように笑い、足早に歩き出す。
 心臓の鼓動の位置が、心なしか上昇した気がする。
 ここからそう遠くない場所に人知れず斃れた抜け殻が転がっていると想像すると、息を吸うことにすら「決断」が必要になってしまう。自分は極度の死体恐怖症なのだ。
 白いものにこれほどの恐怖を感じるとは思わなかった。


 


 先に進むほど、骨同士の間隔が近くなる。
 骨は有るときは孤独に、有る場所では同じ部位と思われる形のものが群をなして、いずれも「厳然として終わったもの」の風情を醸して、静かに転がっていた。
 そして決定的なものが、我々の前に現れた。



 ・・・。
 安心といっていいのだろうか。富士の樹海からは年間100体単位の骸が発見されていると言うし、実際青木ヶ原に消えていく人の数はもっと多いだろう。だから今回直接発見したのが草食動物の骨だというだけで、「安心」の暫時代替としての、(少なくともあの場所で足を進めるに足る)感情の高揚を手に入れたというだけだったかもしれない。
 ・・・しかし、そうするとあの根っ子の抉れも鹿によるものだろう。


 今回のことで、映画中に登場する「骨」の何処がダメなのか、何で骨で登場する死体が怖くないのか、それは本当にディティールの問題であるのだけども、判った気がする。それが収穫。
 そして自分が「怖がり」で良かったとも思う。この日感じた感情のアップダウンを素直に楽しんだと言えるからである。