アイズ・フォー・ノスタルジア

hellbeyond2008-10-11

 ふとしたタイミングで、以前棲んでいた大泉学園を通りかかることがある。


 それは仕事仲間と乗り合いのロケバスの車窓から見る景色であったり、友人の助手席に座り、当てのないドライブに出た帰りのことであったりする。
 改めて思い返すに、就職という大きな変節に当たって身寄りのない練馬区に住処を定め、しかも一年以上地元に帰らなかったのは凄いことだと思う。勿論、終わりのないサイクルを続けるアニメーション製作という仕事に付いた関係上、拠って立つところのない自分の状況を思う余裕がなかったとも言える。いや、その頃には既に生活のリズムを乱しそうな要素を視界から排除する術くらいは身に付けていたのかもしれない。まあそれにしたって、あの当時の状況は「ホームシック症候群」を身に染み込ませた自分にとっては相当のモンだったのである。
 だから現在思い返した時、あの当時目にした光景、新たに得た関係性は強い輪郭を持って迫ってくる。それは大学生当時に高校入学初頭の思いを回想した時に感じていた手触りと似ていて、新しい何かに夢中で触っている時間、それを自分のものとして認識できるようになるまでの時間・・・が、自分は好きなのだなあと思う。
 いや、それを反芻することが好きなのだ、と思う。
 回想を更に現実面まで掘り下げた時、その当時に自分がそこまでの愛着をその現実に感じていたかというと、やはりそんなことはないからである。敵意の渦(と感じられる空間)の中に身を投じていくのは苦痛だった。あやふやで言葉によって定義されておらず、存在を保証してくれる過去の出来事を十分に持たない関係を信じるのは難しいことだった(当時見た悪夢を、今でも思い出す)。
 自分は人一倍懐古趣味のある人間だ。
 中学時代には安寧の中に居た小学時代に帰りたいと願い、高校時代には現実が幻想と分かち難く結んでいた中学時代の心を取り戻そうとあがき、大学時代には純粋な恋愛の萌芽を勝ち取った高校時代を思った。
 かつて自分は、こんな性格を疎ましいと思っていた。


 今現在自分が居住するのは神奈川県川崎市
 きっと、また次の場所に自分の拠点を移した時、ここも反芻の対象になるのだろう。だから今度は、現実でも愛着を持てる時間としてここで生きてみようと思う。懐古主義者が前を向いて生きる方法だってあるに違いないから。
 煮魚と味噌汁、ホイコーローを作りながら、そんなことをつらつらと想った。