No Retreat
心が不安定な時期というのは何をしてもうまくいかないような錯覚に陥るもので、今現在まさにその渦中にもまれて何が何やらわからぬ毎日を過ごしている。
対外的な大きなイベントを今月中旬に控え、その先の五月にはもう次の大型仕事が薄ぼんやりと見え始めている。きっとそこにたどり着けば、この暮雨としてはかのいかない時間も、きっとのどかで薄い皮膜の中で過ごしたあたたかい時間のように思うのだろう。
あるいは、そう望んでいる。
「映画」について自分が積み重ねてきた時間への評価がようようされ始めている現状と遡行するように、重くのしかかるこの気分。
自分が小学校よりこちら、ずっと身を委ねてきた大事な趣味を奪われた後の時間がついに影響を始めたのか。
それとも、自分が表現の礎としてきたある「指向」(幸いなことにこれは「恐怖描写」「怪奇趣味」という、より自分にとって原初的なもの・・・ではないことが救いなのだが)が、明らかに日常生活の中に発見できなくなったことが原因なのだろうか。
必要な行動が何なのかは、本当はわかっている。それが一般論的には非社会的な行動であるだけに、考えずにいただけなのだ。
今ある日常を破壊するだけの行動力を、自分は培ってきただろうか?
そしてもちろん、それを行うだけの精神力も?
きっと、4月半ばのあの「会合」後に、最終的な判断の時は来るだろう。
自分で自分の未来を選び取るために、今は深く沈み、考えることにする。
振り下ろすがいい―覚悟が出来たなら。
完成披露試写会は、それ自体がまるで幼い自分が見た夢だったかのような、嬉しい時間だった。そのことについてはツィッターでもフェイスブックでも書いたので、ここでは別の話。
今までの人生で、何回もあったこと。
夢が自分にインスピレーションを与えてくれること。
夢の上での話だが、夕べ初めてゾンビを「攻撃し、死に至らしめた」。
それは映画で簡単に描かれるほど無機質なものではなかった。(使った武器が鈍器だったというのも大きいが)
死者に追われ、反撃を余儀なくされたとき、そこに迷いが生じないはずはない。それが生きてはいない事を概念的には知っていたとしても、ヒトガタの、動き、呻く「動物」を攻撃し、傷つけ、死に至らしめる(矛盾を覚悟で書く)こと。そこに躊躇が発生しないはずはないし、何より第一撃目と次の振りかぶりとの間のラグをこそ、ドラマとしてのゾンビ映画は描くべきではないのかということだ。
もちろんそこにはその攻撃を受けて、どのような(外見的、動き的な)変化がそのゾンビに現われるのか?という点も重要だ。(喪失感と、不可逆感ということ)
これが次の『葬儀人 アンダーテイカー』シリーズの新描写創造の鍵になるかもしれないと思う。そしてもしかしたら、その表現を突き詰めた先には、「衝動的な虐待」の恐ろしさを警告する効果すら立ち上がってくるかもしれない。
この件に関しては、慎重に取り扱うとしよう。
新しい終わり
完成披露試写会前日。
色々な想いが渦巻く。
この作品が引き寄せたものと、そうでないもの。
突破できた壁と、いまだ聳える壁。
自分が作り出した瓦礫から新しいものを作り出すほどに、自分は懐古的ではない(と思いたい)。
だから、新しい物語を語ろう。ずっと語りたかった、新しい物語を。
葬儀人たちの物語は、始まったばかりだから。
あの時のキス
ゆうばり上映前日である・・・。
一緒に映画祭期間を行脚してくれた友人を映画上映会場に残し、一足先に宿に戻る。風呂と夕食をササッと済ませ、落ち着いたところで明日の予行練習。
周到すぎるのかもしれないが、上がり症の上に喋り下手なのでしょうがないのだ。しかも見栄っ張りでもあるからして、本当にたちが悪いと我ながら思う。ううむ。
ファンタと名がつく以上、ジャンル作品で魅力があったものの紹介を。
『a taste of kiss』。
SFである。趣味のよいCGと、絶妙に抑制された作り手の感情。
禁欲的なまでに、分かりやすいオマージュを排した姿勢・・・これが特に素晴らしい。自主映画だろうが何だろうが、観客が本当に望むものは、監督自信の頭の中から出てきた原風景なのだ(ナンなら原液といってもいい)。
2時間近い長尺もあまり気にならない。
お勧めである。
ジェイムス・ホーナーの音とは思えぬ
『世界侵略;ロサンゼルス決戦』を観る。
冒頭の畳み掛けるパニックの奔流には、感情をわしづかみにされて涙まで流したのに。後半〜クライマックスはご都合主義の嵐、偶然が勝利に関与しすぎ。唐突に敵の弾に当たらなくなる主人公たちにもイラつく。それって差別じゃね。
また、作り手として最悪なのは、前半徹底していた「兵士の視点」を後半うやむやにしたこと。これで-50点だわ。お前ら。ラストの「グッドモーニング!」には痺れたが・・・。
『アポカリプト』を観て、久々に、それこそ10年ぶりくらいに、我を忘れる映画鑑賞体験をした。観客をその場に「臨場」させること。それこそ、娯楽映画が到達できる一番の高み。
それに、うっすらと現状のメインストリーム映画界への挑戦状まで滲ませたのなら、本当に言うことない。
その構造は、そういえば『天空の城ラピュタ』も同じだったなあ。
Not of this world
本日は、
『葬儀人 アンダーテイカー』のチラシ、ポスターが仕上がってきた。・・・エクストリームリークール!早速ゆうばりに送りました。
公式ホームページの試験版が上がってきた。これまたグレイト!刺激されて新しいHPアイディアがポロポロと。
世界最大の映画情報サイト、IMDbに『葬儀人 アンダーテイカー』を登録申請。これが受諾されれば、世界的にプロモートが可能となる。
上記の通りのいろいろな動きをしつつ、中古屋で見るたびに気になっていた『フレディの悪夢』Vol.1を鑑賞。
このビデオには2話収録されており、監督はトビー・フーパーと『天使とデート』のトム・マクローリン。(世間的には天使とデートでも自分的には『スティーブン・キング ブロス』の・・・だ)
これはまだ彼が才気走った若者だった当時の監督作品。それだけあって、シリーズのお決まり描写をだらだらと工夫無く繰り返したフーパー版「フレディ誕生の巻」より、フレディは出ないが田舎町を逃げ出そうともがく若者の故郷に対する嫌悪感が見事にケレン味ある恐怖描写として結実した第二話のほうが数段面白い。後半主人公が変わるという意味不明の展開、落ちのないラストで台無しにはなるものの、フーパーによる一話目の印象を拭い去るだけのパワーはあった。予算のない中で悪夢描写を面白く見せるには?という工夫がふんだんに盛り込まれている。いや、過度な描写、唐突な演出が許される悪夢描写こそ、低予算でも見応えのある恐怖を演出する土壌なのだ。我が心の『Beyond the Dream's Door』がそうだったように。
また、第二話からつくオープニングタイトルも、エルム街シリーズの雰囲気を上手く凝縮していた。
・・・とここまで褒めたものの、決してVol.2に手が伸びるほどのものではない。きっとここから先は映画のスピンオフ的話と、「悪夢」描写をちょっとはさんでタイトルに嘘の無いよう取り繕った苦しい物語が交互に続くのだろう。
TVシリーズに絶対必要な「話しを追う面白さ」はなく、一話一話全く別の味が楽しめるオムニバスの旨みも薄い。
なるほど、未DVD化ね。
また、酷い邦題だが『水の中のつぼみ』はとても女性マンガ的なレイアウト、リズムが楽しめる小品だった。ときどきこういう、俳優の表情を追う作品を見るとはっとさせられる。映画を見せるってこういうことだ。すくなくとも自分にとっては。
同様の意味で、最近『サイレンサー』のヘレン・ミレンのカッコよさにもヤられた。グッディングJr.とヘレン・ミレンの殺し屋コンビ。ジャケットでピンと来たヴィジュアル的相性は見事に図に当たり、二人が同時に画面内に居るカットは全て、このままこのカットをずっと見ていたいというほどの至福感に溢れていたのだった。
好き嫌いはいけません
昨日よりヤフーオークションでのビデオ販売を再開。
ここから3月頭までは作品『葬儀人 アンダーテイカー』の売り込みに掛ける以上、純粋な収入はこのビデオ群に担わせることになる。
今日から先、コレクションの中から一日一本、思い切ったタイトルを出品し続けるマラソンを自らに課すことにする。それくらいの痛みは担おうじゃない。
昨日は『宇宙からのツタンカーメン』本日は『グルメホラー 血まみれ海岸 人喰いクラブ 地獄のシオマネキ カニ味噌のしたたり』。
前者は少年時分TVで鑑賞。それなりに怖がった。無機質な大学の夜間キャンパス風景の印象が強く残っている。
後者は同様に少年時代、よく通っていたビデオ屋でジャケットをぢっと見ていた時間を思い出させる。
両作ともそれなりの思い出がある作品である。
こうして映画的記憶を切り売りすることで、本作の制作費の幾許かは賄われたわけである。
映画を栄養に、映画が生まれる。
そんなこともある。